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次回勉強会は忘年会です

前略 すこしご無沙汰でしたが、次回の勉強会は、12月10日午後6時半から、「『政権交代と介護・福祉の行方』を考える大忘年会」と称した忘年会です。場所はいつものほっと・ハウス・豊玉で、会費は2000円を予定しています。なお、呼びかけ人は、沖山一雄、薛静也、佐藤義夫となっております。ぜひご参加ください。

第14回(3−5)勉強会のお知らせ

 次回勉強会は、10月22日(木曜日)19時から、場所は同じ練馬区の「ほっと・ハウス」で。
 内容は、政権移行後の福祉国家のイメージと長崎浩さんの「介護労働覚書」などです。

あとがき

あとがき

 本書はもともと、一九七八年に書いたパンフレット「革命について」がきっかけになっている。この文書は私自身気に入らず、大はばに加筆しながら七〇年代いっぱいをかけて幾度か書き直し、当面の最終稿とおぼしきものを一九八〇年のはじめに完成した。しかしいろいろの事情で出版にまではいたらず、そうこうしているうちに、本書の契機となった状況――六、七〇年代のラジカリズムの退潮とかアジア社会主義国家どうしの戦争など――のインパクトも、移ろってしまったかにみえた。それで私は本稿のことをほとんど忘れてくらしていた。
 今年になって、雑誌『季節』の編集の方から出版の申し出があったときも、だからちゅうちょが先にたった。しかし、カントのいい草にこうある。――ひとは嘘をついてはならないが、すべての真実を語る義務はないのだ、と。そうか――。弱年のころは、息せききって自分の真実を全部伝えねばと焦ったものだが、ひとは、ごく一部の著作家を除いて、自己のすべてを語り出すなどということはないのだ。
 というわけで、本書は私からのメッセージとはなっていないかもしれない。私としては、私の読者が自分の問題を回転させるのに、本書が刺激になればと願っている。
 出版を奨めてくれた畏友佐藤粂吉氏、またその労をとっていただいたエスエル出版会の松岡利康氏に心から感謝したい。


一九八三年十月 長崎  浩

ラジカリズムとアジア

第七章 コミューンと近代

第二節 革命の問いの現在

ラジカリズムとアジア

 ひとはあるいはここで不審に思うかもしれない。今日の「大衆社会」とそのラジカリズムから出発するのであれば、およそ党とか国家とかは現実問題たりえないと。この国の戦後三十年の歴史は、党をも国家をも事実上無に帰してしまったかにみえる。「日本国家」などというものを大衆の政治的記憶から払底させるほどには十分に、戦後社会はこの国のあらゆる階層に定着している。そして全世界的な社会主義の党と国家の実例も、かつてとは逆に、この国の将来にあってはならない見本と見なされている。私は本書を書きながら、社会主義ベトナム軍が社会主義国カンボジャの首都に七〇キロメートルと迫ったというニュースを聞く。一瞬、かつてのクメール・ルージュの進撃のニュースかと、目を疑うのである。

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コミューンの自立と政治の自立と

第七章コミューンと近代

第二節 革命の問いの現在

コミューンの自立と政治の自立と

 このように、マルクス主義者と天皇主義者は、同じく大衆的革命の基底に立ちながらも、一方はコミューンにおける「自然」の噴出がすべての革命の故郷であることに目を閉し、反「自然」としての「階級」をもってこれを「克服」しようとした。そして他方は、「階級」がおよそ「近代国家統一の秘密」であることから目をそらし、反「階級」としての「自然」をもって、国家の政治的性格そのものを無化せんと欲した。結局のところ、コミューンと政治とが逆位に交叉する場所、コミューン党と国家におけるジレンマに、両者はともに耐えることができなかった。

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「自然」の物神化

第七章 コミューンと近代

第一節 コミューンのジレンマ

「自然」の物神化

 レーニンたちのしがみついた「階級」の観点には、むろん当人たちの戦略的な思惑も働いていたであろう。レーニンが近代的組織労働者のもつ規律と集権性に期待するのは切実なことであった。こうしたことはまた、社会革命と政治というもののジレンマとして考察することもできるだろう。だが再三ことわるように、私のここでの関心はそういうことではない。私はただ、およそ大衆の革命において「階級」というものがもつパラドックスに注目し、この基底的な出来事に欺瞞なく直面することを求めるだけだ。
 というのも、コミューン党(前衛党)のうちの度はずれな階級物神という以上のパラドックスは、ちょうど逆位の位相で、コミューン国家の自己主張のうちでも起ったことにほかならないからだ。そこでは、まさに「階級」が疫病神のように嫌悪され、排斥され、代って「自然」が物神化される。わが国の超国家主義、つまりコミューン・国家直結革命論の歴史のなかで典型的に露呈したことを、ちょっと思いおこしてみよう。

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「階級」の物神化

第七章 コミューンと近代

第一節 コミューンのジレンマ

「階級」の物神化

 さていまや、最高の政治権力形態たる党と国家に、正面から直面することにとりかかろう。
 およそマルクス主義者であれ天皇主義者であれ、またファシストや大衆的ラジカリストであれ、革命主義者たちの集団形成に出自をもつ党や国家は、たんに典型的な政治権力と規定するだけですますことはできない。ヘーゲル(そしてマルクス)が考えたような近代悟性国家、あるいはマルクス主義の正統派がつくりだした近代労働者階級の階級政党――こうしたものと対比するなら、これらがきわめて異常な権力形態であり、まさに似て非なる性格のものであることが了解されるだろう。そしてかかる党・国家こそが、「最高の共同」として、おのれの母胎たるコミューンの大衆に君臨してきたのである。その歴史の栄光と悲惨こそ「革命の問い」が経験してきたことであり、「革命の問い」にとっての現実である。

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党と国家を通底するもの

第六章 党と国家――コミューンの憑依態として

第三節 党と国家を通底するもの

 さてここまでくれば、コミューンという基底から、党と国家とを――それがマルクス主義者のものであれ天皇主義者のものであれ――本来的にパラレルに把握することができる。党と国家とをはじめから対極的な政治形態であるかに考えるのは、集団を党ないし国家へと促す前反省的な衝迫力を見まいとするイデオロギーによるのである。これとまったく同様、権力機構としての両者のアナロジーを強調する――バクーニンのように――のも、たんに二つの典型的な政治形態として自明のことを指摘しているにすぎない。党も国家も、大衆の自然的共同性の観念が革命において結ぶ一つの形なのである。それがコミューンの憑依態としての党であり国家なのであって、したがって第一義的に政治的でなく倫理的な性格のものである。「プロレタリア的人間の強固な共同体」そして「倫理的制度としての国家」(北一輝)なのだ。

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激情の砦

第六章 党と国家――コミューンの憑依態として

第二節 コミューン国家の原像

激情の砦

 「政治的国家の最高の総合が、土地所有と家族生活との総合以外のなにものでもないということは、そもそもなんという異常なことであろうか!」若いマルクスはこのようにへーゲルの理性国家を評している。たしかにこれは異常だ。だがこの異常さとは、ヘーゲルの論理のものというより、はるかに大衆的幻想そのものの異様さを映しているのではないのか。
 わが国の近代では、社稷思想のように微温的でのびやかな農本的ユートピアが、農村の危機を背景として超国家主義の革命に結びついたことがあった。この意味では、社稷コミューンの幻想が同時に「国家」を名のることによって、国家はまた革命の砦たるべきものであった。しかしここで国家とはむろん、民衆の生活世界の上に立つ政治国家のことではない。民衆のプリミティブな自然的共同性と直結する共同体、要するにコミューン国家であった。したがってコミューン国家はまた――コミューン国家である限り――革命主義の共同理念であった。

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階級から自然へ

第六章 党と国家――コミューンの憑依態として

第二節 コミューン国家の原像

階級から自然へ

 思い出してほしいのだが、私は第一章で、へーゲルの「階級論」をとりあつかった。そこで階級―職業団体―国会という階級の展開は、市民社会の「中軸」であり国家の「基底」をなすとされたのだった。「ここに、利己心が普遍的なもの、すなわち国家に結びつけられる根本がある。」(二〇一節)。とすれば、この意味では、ヘーゲルの近代国家はまさに一つの「階級国家」を意味するのであり、事実すでに指摘したように「悟性国家」のレベルではそのとおりだった。
 しかしそれでは、さきのへーゲルのコミューン国家――悟性国家に対比してこれを理性国家と称する――は、この階級国家と一体どのような関係にあるのだろうか。じつはここにへーゲル国家論の重大な断絶があり、ヘーゲル論を超えて私の注目するのもその点なのである。

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